日本は平等な社会か?|社会階層研究が明らかにしてきたこと

昨日、twitter経由でこのような記事を見つけました。

「日本は努力次第で上に行ける平等社会だ」学生支援機構トップが奨学金制度批判に苦言

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この記事は、日本学生支援機構の理事長である遠藤勝裕氏へのインタビュー記事です。全体として、奨学金問題はセンセーショナルに騒がれ過ぎており、実際には奨学金を返還できない人は全体のうち2%強とさして多くないことや、延滞金はきちんと払っている人が相対的に損をしないための(?)制度であること、給付型奨学金がもちろん望ましいことは間違いないが、日本では国民的合意が取れないため難しいこと、といったことが述べられていました。

それはそれとして、個人的にひっかかったのはそうした点よりもむしろ、記事のタイトルにもなっている、「日本は努力次第で上に行ける平等社会だ」という主張についてです。記事のなかの当該箇所を引用します。

―日本とほかの国の最大の相違点は?(記者)

奨学金の問題もよくヨーロッパと比較されますけど、ヨーロッパ社会というのは、日本なんかよりはるかに階級社会なんですよ。生まれ落ちた時から「銀のスプーン」をくわえている人もいる。階級という形で格差が社会システムにあらかじめ組み込まれてしまっているんです。

日本では、勉強をしっかりして、真面目であれば、公立の小中高校から東大にだって京大にだって行けるじゃないですか。イギリスだったら、リバプールの港湾労働者のところに生まれたら、たとえばケンブリッジ大学なんて行きたくても行けないわけですよ。

―日本では格差が拡大しているという認識を持っている方が多いと思いますが。(記者)

いやいや、日本は世界的に見ればまだまだ平等で、流動性の高い社会だと思います。大学に行くのも自由。奨学金の貸与を受けるのも自由。誰も拘束なんてしてないんですよ。

(引用終,下線部は筆者による)

端的に言って、下線部はまったくの間違いです。日本は欧米諸国と比べて流動性が高い社会であるわけではないことは、社会階層研究においてはもっとも基本的な知見の一つです。しかし、記事を見て、社会階層研究は一般にはまったくインパクトを持っていないのだということを痛感しました。以下では、社会階層研究における研究を簡単に眺めてみます。

機会の平等・社会の開放性を測る指標としての世代間移動

上で引用した記事では、「流動性」という語が出てきています。ここで「流動性」という単語は、生まれ落ちた社会的環境からどの程度自由に移動することができるか、という機会の平等を指しているものと考えられます。

社会階層研究における主要な問題関心の一つは、ある社会において機会の平等がどの程度達成されているか、別の言い方をすれば、社会の開放性がどの程度であるかを明らかにすることにあります。こうした社会の開放性を測る一つの指標が、(父)親の階級(=出身階級)が子の地位達成(=到達階級)に対してどの程度影響を及ぼすのか、という世代間移動です。世代間移動は、以下のようにその構成要素を区別することができます。

絶対移動=構造移動+相対移動

絶対移動は、親と異なる階級に移動した子の総量を表します。構造移動は、そのうち、親子間での階級の構成比率の変動の効果(たとえば、時代が下るに連れて農業の占める割合が小さくなり、サービス産業が大きくなるといった産業構造の転換はこれにあたります)を表わします。相対移動は、絶対移動から構造移動の効果を除いた部分として定義されます。

世代間移動のうち、相対移動がどの程度生じているかをもって、各社会の開放性を表すことができると考えられます(Blau and Duncan 1967; Treiman 1970)。こうした考え方のもと、相対移動が各社会においてどの程度生じているのかに関する研究が盛んになされました。その結果、産業構造の変化を経ても、相対移動のパターンや総量はほとんど不変である、という傾向が各国で確認されました(Fetherman, Jones and Hauser 1975; Erikson and Goldthorpe 1992)。

こうしたなかで、日本の世代間移動にはどのような特徴が見られるのでしょうか。石田らの研究によれば、日本は戦後の急激な産業構造の変動のなかで、絶対移動の総量は欧米諸国に比べて大きい値を示す一方で、相対移動のパターンやその量は時代が下ってもほぼ一貫しており、欧米諸国と近しい水準(中程度)にあることが示されています(石田 2000; 石田 2003; 石田・三輪 2011)。こうした研究を踏まえれば、日本が機会の平等が保証された開放性の高い社会である、と結論することは難しいといえます。

結論

ヨーロッパ社会が階級社会(生まれ落ちた階級でその後の地位が決まってしまう)で、日本は階級社会でない、という議論は少なくとも経験的には根拠が極めて乏しいといえます。先に挙げた記事のような極端な議論を鵜呑みにすることなく、冷静に実態を見つめることが必要です。

ただしここで注意すべきは、個人レベルでみれば、貧しい家庭に生まれても、努力次第で高い学歴を得て、高い地位を獲得する人は(確率は相対的に低いですが)いないわけではないという点です。こうした事実は、ともすれば「彼(女)は貧しくても努力して高い地位を得たのだから、貧しくても努力すればいいはずだ」という自己責任論を擁護する材料として用いられがちです。しかし、自分では選ぶことのできない生まれによって、同じ地位を獲得するために投入しなければならない努力の量が変わってしまうことは、機会の平等という観点からみれば到底許容することはできません。奨学金の問題も、同じ大学に行くのに、生まれた家庭によって、奨学金を借りることになる人とそうでない人とが分かれてしまうことにはやはり機会の平等という観点からは問題があるといえます。今後の日本において、機会の平等にどの程度重視する社会を目指すべきかというところを議論していく必要があるだろう、と思います。

参考文献

Blau, Peter M. and Otis Dudley Duncan, 1967, The American Occupational Structure, New York: Free Press.

Erikson, Robert and John H. Goldthorpe, 1992, The Constant Flux: A Study of Class Mobility in Industrial Societies, Oxford: Clarendon Press.

Featherman, David, Frank L. Jones and Robert M. Hauser, 1975, “Assumptions of Social Mobility Research in the United States: The Case of Occupational Status,” Social Science Research, 4: 339-360.

石田浩,2000,「産業社会の中の日本  社会移動の国際比較と趨勢」原純輔編『日本の階層システム1 近代化と社会階層』東京大学出版会,219-248.

石田浩,2003,「社会階層と階層意識の国際比較」樋口美雄・財務省財務総合政策研究所編『日本の所得格差と社会階層』日本評論社,105-126.

石田浩・三輪哲,2011,「社会移動の趨勢と比較」石田浩・近藤博之・中尾啓子編『現代の階層社会2 階層と移動の構造』東京大学出版会,3-20.

Treiman, Donald, 1970, “Industrialization and Social Stratification,” Edward O. Laumann ed., Social Stratifacation: Research and Theory for the 1970s, Indianapolis: Bobbs-Merrill, 207-234.