「有意でないといけない」という観念はどこで身につくのか
ゼミで毎年研究論文を学生に書いてもらっている。演習の内容は研究計画を立て、それにもとづいて社会調査の個票データを分析して結果を報告する実証研究論文を執筆するというものであり、その教材の一つとして「Rによる社会調査データの手引き」を使っている。
上記ページにも記されているとおり、ここで推奨しているのは、事前に十分な研究計画を立てて、それにもとづいて(もちろん、研究経験のほとんどない学部生であるから、分析のなかで研究計画で不足していた部分を修正したりする箇所はあるにせよ)データを取得して分析を進めるという標準的な手順である。計画時点で提示された問いが学術的に重要であり、かつそのためのリサーチデザインが適切なものであれば、分析結果が「統計的に有意」(p値が0.05未満であること)であるかどうかによらずその発見には実質科学的に意味がある、というのが標準的な理解だろう。上記のように説明しているので、多くの学生は「統計的に有意」であるかどうかによって一喜一憂したりしない印象を持っている。
しかし、学生の様子をみていると、「統計的に有意でないと論文にならない」という観念を持っている学生がたまにいることに気づく。また興味深いことに、よく勉強している学生ほど、このように考える傾向があるように感じている。つまり、最初はこのような観念を持っておらず、かつ教員がそのように言わなかったとしても、学生が自ら社会化の過程でこのような観念を身につけるようなのである。
このようになる理由の一つとして、実際に論文化されている研究は、統計的に有意な結果を報告しているものが多いということが考えられる。出版バイアスの問題として知られているように、論文では統計的に有意な結果が強調されやすく、統計的に有意でなければ出版が認められない、または、そうした論文は投稿されない、といったことがある。よく勉強している学生はそれだけ多くの論文を読んでいるので、統計的に有意な結果に多く触れている。その結果、論文とは統計的に有意な発見を報告するものだ、そうでなければ論文でない、という観念が生まれるのかもしれない。
学生だけでなく、研究者一般も、日々過ごす中で、論文を読むことにかける時間は教科書等で勉強したりする時間よりもずっと多い。そのため、公刊された論文の見た目やスタイルに(意識しなくとも)影響されている可能性がある。論文はたんに明らかにしている事実のみならず、そこに含まれる「隠れたカリキュラム」を通じて、読む人にも影響を与えているかもしれない。